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無意識にSOSを発していた私の身体、ついに病名が明らかに~離婚までの経緯12


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私は両親の反対を押し切って結婚をした手前、自分の結婚生活の事実を何ひとつ両親に漏らしていませんでした。


元夫に多額の借金があること

元夫から1円も生活費をもらっていないこと

自分の給料と独身時代の貯金で家族を支えていること

元夫の凄まじい破壊行動の実態

すでに十数年も前から、夫婦の様相を成していないこと


それら全てのことを、結婚以来ずっと隠し続けていたのです。


2005年に2人の息子をともなって、実家に引っ越したとき、



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元夫は、「ウチのことで、お前の両親に心配をかけるなよ!」と、強く言い放ちました。


表面的には義父母想いの言葉のようですが、これはすなわち、家の中の事実は両親にバラすな!という意味です。


そんな風に命じられなくても、今さら両親にモラハラの事実を打ち明けるつもりなど、私には毛頭ありません。


2人の息子たちには、このときも、そしてこれまでも、別に口止めはしていませんでした。でも彼らもまた、家の中の様子を口外することは一度もなかったのです。


彼らは幼い頃から、自分の家の空気感がよそのそれとは違うことを感じていたと思います。そして、家の中のことを外に漏らしてはいけないものと、子供心に察していたのでしょう。


そんな息子たちですから、私の実家に引っ越してきて以降は、祖父母にも何も話さないよう、殊更に気をつけてくれていました。


ところが、以前も書いたとおり元夫の帰宅前になると、原因不明の発作をくり返す娘を見て、さすがに両親も黙っていられなかったのでしょう。


元夫の帰宅前にどうなるか、こちらの記事でお読みいただけます↓
お願い助けて、呼吸の仕方がわからない



「今までずっと、◯◯君(元夫)に暴力でもふるわれていたのか?」


またいつもの呼吸困難を起こし、緊急入院した私の病室で、父は重く湿った声で聞きました。


「うううん、そんなこと1回もないよ」と、あえて明るく私は答えました。


これはウソではありません。実際に直接的な暴力は、1回もふるわれてはいないのですから。


「そうか。じゃ、いいけど…」


父はそう言ったきり、同じ話題にはもう触れませんでした。


ただ、何も聞かないかわりに、それ以降はしょっちゅうわが家(元は自分の家)に顔を出すようになりました。その頻度は2日に1回ぐらい!ほとんどいっしょに住んでるみたいなもんです(笑)


いつも母と2人でやってきて、とりとめのないことをしゃべったり、庭の菜園や花壇の手入れをしたり、孫達とゲームをしたり、どこにでもあるおじいちゃんとおばあちゃんの姿でした。


でも、その胸中は娘や孫への心配でいっぱいだったのでしょうね。様子のおかしい娘を守るためにはどうしたらいいか、きっと2人で相談して、まずは度々顔を出すことにしたのだと思います。


私が仕事で留守の間に2人でやってきて、次の不燃ごみの日に捨てるつもりだった割れ物を黙って持って帰ってくれたり、


休みの日にやろうと放置していた、破れた襖や障子をキレイに貼り替えておいてくれたりしました。


割れ物も襖や障子の傷みも、もちろん元夫の仕業なのですが、そのことは私も言わないし、両親も聞きません。


お互いに何も言わなかったけど、おそらく父も母もわが家の真実は、ちゃんとわかっていたのだと思います。


そんな風に何も聞かない両親でしたが、元夫が赴任先から戻る予定日だけは、必ず聞いてきました。そして、その前日に2人でやってくると、わが家で夕食をとり、なぜか決まって父はお酒を飲みたがったのです。


わが家と両親のマンションは、同じ市内でもかなり距離が離れています。だから父はいつも車を運転してやってくるので、飲酒する=その日は泊まるということです。


これも父と母が考えあぐねた末、2人で見つけた娘の保護と救出作戦だったのでしょうね。


そうやって両親に気遣ってもらいながらも、私の発作は相変わらずでした。元夫の帰宅前夜か当日には、まるで判で押したように、あの死にそうな息苦しさに襲われるのです。


ただ、当初のようにいきなり発作が出現することは少なくなりました。まず、前触れのような状態から、徐々に呼吸困難に変化するようになったのです。


その前触れの段階で、父がすぐに病院に運んでくれるので、救急車のお世話になることもなくなりました。


たぶんこんな風に対応するために、私の発作が起きる該当日は泊まることにしたのだろうと、今は両親の意図がよくわかります。何も聞かずにいつも待機してくれていた両親には、感謝しかありません。


その後も私の発作は起き続けたし、その原因も不明のまま。それでも、父や母のおかげで、何とか1年、2年と時は経ちました。


元夫は、ことのほか私の父を煙たがっていたので、自分の帰宅日に必ず両親が泊まっていることには、当然ながら大ブーイング


でも、さすがに父が見ている前では、いつもの破壊行動は起こしませんでした。そしてやがて、月に一度の帰宅が隔月になり、2年目も終盤になる頃には、帰宅するのは3ヶ月毎ぐらいに減っていったのです。


必然的に私の発作の頻度は少なくなりましたが、それでもまったく治ったわけではありません。


ある日、父が言いました。


「花音の病気の原因と治し方を教えてくれる先生に会いに行こう」


父と訪れたのは、とある病院。


父は、この数年間ずっと、私の症状を治せる病院を探してくれていたのです。


診察室は、清潔で明るくて、気分が落ち着くような空間でした。先生は、穏やかで優しい印象の人で、ゆったりした口調で話しかけてくれました。


これが、その後長らくお世話になる先生との出会いでした。


そして、とうとう私の病名が判明したのです。


PTSD(心的外傷後ストレス障害)


私に死ぬほどの苦しみを与え続けた病気の正体は、心臓の疾患でも呼吸器の欠陥でもなく、心の中にオリのように溜まった強いストレスによる、心の病だったのです。


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